鍛錬

強制や制限しない教育

 

大目にみる教育

 

叱らない教育

 

罰しない教育

 

これが現在の言わば許容的教育の特色であろう。
学校はもちろんのこと家庭でも顕著に認められるのではなかろうか?
空手教室もしかりである。
その結果、昔にはなかった新しい?考え方をもつ子どもたちが増えている。


その一つは「自分のしたくないことは何もしなくてよい」という強制否定の考え方である。
学校に行きたくないから行かない。稽古をしたくないからさぼる。空手の稽古に来ているのに何をしたらいいのかわからない。

といった風にである。


もう一つは「自分のしたいことは何でもしてよい」という考え方である。
気にくわないから友だちをいじめる。先生が厳しすぎるといって暴言をはく、暴行をはたらく
昔は絶対に許されなかったことが、簡単に許容され、黙認されている。


その結果が、気ままな、耐性のない、弱い人間になっているといっても過言ではないと思う。

そこで、克服するために「鍛錬」の重要性を見直さなければならない。
「艱難(かんなん)汝(なんじ)を玉にす」ということわざがある。
これは西洋の「逆境は人をかしこくする」ということわざを意訳したものであり、

「人は多くの苦しみや困難を乗り越えてこそ、はじめて立派な人間になるという教訓である。
こうしたことわざが洋の東西を問わず広く受け入れられていることは、苦しみや困難に耐え、それを乗り越えることが人間形成上きわめて大切であることに他ならない。


「鍛錬」という言葉の意味はご周知のとおり、熱した金属を繰り返し打ったり、液体で冷やして良質のものにすることである。
「鍛錬」は、厳しい練習、修練を繰り返し、技術を習得したり、心身を強くすることを意味している。
「鍛錬」が教育的な意味に用いられるようになった背景には、金属を鍛える場合に見られような厳しさが子どもの心身の成長にとって必要であると考えられたからである。
そこにきたえることの教育的意義があり、鍛錬の目的がある。


わが道場の目的も規約で定めるとおり、「鍛錬」である。

 

正中館道場  館 長 著